未曾有の危機の際の東京とニューヨークのリーダーの発言の違い

4月11日付の読売新聞の編集手帳に、2001年のアメリカ同時多発テロの11日後、当時のニューヨーク市長であったジュリアーニ氏がどのような発言をしたかが記されている。

「普段通りの生活をしても、死者を悼むのを()めたことにはならない。犠牲を無駄にしないため我々がまずできることは、普段の生活を取り戻すことだ」

一方、今回の未曾有の大災害において、東京のリーダーは公然と花見をすることを自粛すべきと発言し、節電担当大臣はプロ野球の早期開幕を「商業主義」と説教をし、物理的に開催可能であるはずのセリーグの開幕を遅らせた。

これこそが、「自由主義経済社会」を選択している国としての成熟度の違いだ、と感じざるを得ない。






今日ようやくプロ野球もパリーグ・セリーグが同時に開幕し、プロ野球ファンの自分としてもやっと春になったような気分になり、「やっぱりいいものだ」と心から思った。被災されたプロ野球ファンの方も、同じような感情を持った人もたくさんいただろう。

一方で、東京ドームの10倍もの電力を使うということで懸念されていた、東京ディズニーランドも今日正式に3日後の15日から営業時間を短縮して再開することが発表された。こちらも、プロ野球が激しく世論に攻撃をされたことをみて、その開幕に合わせて世間の反応を注視しながら恐る恐る発表されたという感じがある。(当初は再開5日前までに発表するはずだったものを、途中で3日前に変更して発表した)

この一カ月ほど、マスコミなどが作りだすムードによって世間のマインドが下がり、「自粛しなければ」という空気が醸成されて、その間違ったムードを打ち消そうとする明確なメッセージを出せる政治的なリーダーがいないということが事態をより悪くしている。

自由主義経済で成立させることを選択した国は、経済を回すことでしかその成立を維持することはできないにも関わらず、その根本的な原則を堂々と発信することができるリーダーが今日本にはどこにもいない。

マインドが冷えるだけでなく、停電などによる「不快」を根拠にして、正当な商業活動を「不謹慎」と容赦なく攻撃する空気までできてしまっている。そして、正当な商業活動を行っている事業者は世論による「不謹慎」の監視に怯え、萎縮してしまっている。

自らの「自由」を維持するためには、その社会を構成する人によって「他者の自由な活動を保証すること」が確実に約束されていなければならない。もちろん、「公共の福祉に反しない限り」という注釈は付くのだが、自分が「少し不快に思う」程度の不寛容で、この原則がつぶされることがあってはならない。

地震は恐ろしくマインドをひやすもので、停電も確かに不便だが、それによって「他者の自由な活動」を攻撃し、制限する権利を与えるものではないはずだ。そんな根本的なことも冷静に判断できる人が未だ日本には少なく、リーダーとして発信できる人がいないことは大変残念なことだと思う。

この間違った判断によるつけは、経済のさらなる停滞で払わされることになり、経験として刻まれることになるのだろう・・・

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このページは、が2011年4月12日 20:52に書いたブログ記事です。

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